1章 フワナ-01
透明のガラスポットになみなみと入ったレモネードをこぼさないように、フワナは慎重に歩を進めていた。
夏の直射日光が当たる城の渡り廊下をじりじりと歩いていると、こぼしそうな緊張もあいまって肉球にじっとりと汗が滲んでくる。ポットとグラスが乗ったトレイをうっかり取り落としはしないだろうかと心配になるほどだ。
彩りとして最後に入れたスライスレモンが多すぎたと思いながらも、まぁいいかとそのまま運び出した自分の軽率さをフワナは恨んだ。今頃主人である女王プリムラはフワナの帰りが遅いことで眉を吊り上げているに違いない。
足裏を床に擦りながらそろりそろりとここまで歩いてきたけれど、多少こぼしてもいいから早く持って行った方がいいかもしれないと思いながらもう一歩踏み出したとき、床の石タイルがカタリと動いた。いつもだったら気に留めない、気付きもしないであろう小さなものだったが、神経を尖らせて歩いていたフワナには大きなものに感じられた。慎重に足を上げ何度か踏み込んでみると、足の動きに合わせて石タイルもカタカタと動いた。
フワナは足を退かし、タイルを観察した。渡り廊下は50㎝四方の石タイルが敷き詰められている。きっちりと隙間なく敷かれたタイルは全て同じように見えたが、注意深く見てみるとこのタイルだけ一辺の隅が僅かに削られており、隣のタイルと少しだけ隙間が空いている箇所があった。細い金属プレートのような…フォークの先か何かを溝に刺してこじ上げたら持ち上げることができそうだ。
溝の近くに足を置くと、フワナの白くて細い毛が微かな風にそよいだ。この下は空洞になっている、フワナはそう確信した。
ゴールデンメドウ城には隠し通路や隠し部屋がいくつも存在した。フワナがその秘密に気付いたのは城に来て数カ月経った頃のことだった。
下女として城に入ったフワナは小柄で体力のない体での労働と慣れない生活で毎日へとへとになっていた。目の前の汚れや埃を見ることしかできない余裕のない日々が一変したのは二ヵ月程経った頃。フワナのふわふわとした真っ白な毛と小柄で可愛らしい容姿を王妃が気に入り、侍女に取り立ててくれたのだ。とはいえ貴族の家の出でもないフワナは王妃が自室にいるときにちょっとした身の回りの世話を言いつけられるくらいで、やるべきことはそんなに多くなかった。王妃が城外に出掛けた時などは特に暇で、そんな時スカートのポケットに忍ばせた小さなメモ帳に城や窓から見える景色をスケッチすることがフワナの楽しみだった。
その日も王妃が朝から外出したため部屋に飾る花を採りに行く名目で庭に行き、そこから見える城をスケッチしていた。そして下女として働いていたころ幾度となく拭いた窓の数と外観から見える窓の数が合わないことに気が付いた。気のせいかと思ったが、後日それとなく窓数を数えてみるとやはり1つ足りない。
その位置から隠し部屋を見つけることはそう難しいことではなかった。使用人部屋の中の一つで、部屋数が足りなくて相部屋になっているというのに何故か空き室になっている部屋。その部屋の暖炉の中に足掛金物がついており、そこを少し上ると隠し部屋に繋がっていた。見た感じ何年もの間誰も入ったことがないようだった。
隠し部屋を見つけてから注意深く城を観察してみると不自然な箇所がたくさんあり、探ってみると次々に隠し通路や部屋が見つかった。今や隠し部屋探しはスケッチと並ぶ趣味になっていた。
おそらくこの石タイルも何かの入り口なのだろうとフワナは思った。今すぐにでも確認したいところだが、トレイに乗っている薔薇の浮彫が施された上品なティースプーンを床の溝に突っ込むのは躊躇われた。それでも未練たらしく溝を見ていると、前から咳払いが聞こえ、フワナは顔を上げた。
目の前に険しい顔をしたアイスバーグ王子が立っていた。思わずどきっとしてしまったのは、王族だったからでも険しい表情だったからでもなく、アイスバーグだったからだ。氷河のような澄んだ水色の瞳がまっすぐにフワナを見ている。その瞳に思わず見惚れていると、
「早く退け」
アイスバーグが小声で鋭く言った。それから周囲を窺うように視線を巡らせた。
そこで初めてフワナは状況を理解した。使用人は廊下の端を歩く決まりになっているのだが、急いでいたフワナは誰もいないのをいいことに廊下の真ん中を通っていた。他に人がいない時なら許されるが、王族の前に立ち塞がるなど許されないことだ。王族を避けさせたともなれば厳しく罰せらるだろう。アイスバーグはフワナの無礼を咎める気はないようで、誰かに見られる前に何とかしなければと焦っているようだった。
「失礼しました!」
フワナは慌てて飛び退るように横に避けた。その拍子にトレイの上のガラスポットとグラスがガチャンと音を立ててぶつかった。倒れそうになるグラスを見て、フワナは次に来るであろう破壊音に備えて無意識に目を瞑った。
しかしいつまで経っても床にグラスが叩きつけられ割れる音は聞こえてこなかった。フワナがそっと目を開けると、アイスバーグがグラスを片手に安堵の息を吐いていた。トレイから落ちそうになったグラスをキャッチしてくれたらしい。
「驚かせてすまない。」
何故かアイスバーグが謝り、グラスをそっとフワナが持つトレイに戻した。
「いえ、こちらこそすみません。ありがとうございます。色々と…」
フワナが全部を言い終わる前にアイスバーグはフワナの前を通り過ぎた。魚の尾に似た大きなしっぽをフワナがいる方とは逆に曲げ、忍ぶような足取りで歩き去ると、建物の中に入っていった。
「…なんでだろ」
閉まる扉を見つめながら知らずのうちにこぼれ出た言葉は、自分でも驚くくらいに憤りを含んでいた。
アイスバーグは皆から「氷のように冷たい」と評されている。フワナはそのことが以前からどうしても納得できなかった。確かにアイスバーグは微笑一つ浮かべないし、口数も少ない。話したかと思えばぶっきらぼうな口調で愛想も愛嬌も感じられない声ではある。弟のシブレット王子がその真逆のタイプで、よく笑いよく話し、周囲を気にかけるようなことを言うから余計に冷たそうに見えるのかもしれなかった。
でも…とフワナは思う。プリムラ王妃の側仕えである自分の失敗をなかったことにしようとする行動は、冷たい者のすることではない。それにアイスバーグに助けられるのはこれで二回目だった。
城に来たばかりのフワナがいつも一人でいるアイスバーグを家臣の子供だと勘違いして「坊ちゃん」などと呼んで接した時、怒るでもなくフワナが咎められないようにこっそりと指摘してくれた。プリムラ王妃が側仕えや家来に行動を見張らせ何か失敗でもしようものなら王に告げ口したり笑い者にしていることをアイスバーグが知らないはずはなく、このチャンスを利用して王妃の手の者を一人排除しようと思っても不思議ではないのに、そうしないで対処してくれたアイスバーグが冷たいわけがないと思う。
冷たい目だと言われている瞳も、フワナはただ澄んでいて美しいとしか思えなかった。
皆がこのことを知らないのは、自分のようなヘマをする人が他にいないからなのかもと苦笑し、フワナは王妃の部屋へと向かった。
■ ■ ■ ↓ 2023.10.19 更新分 ↓ ■ ■ ■
王妃の部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえてきた。おそらく男性のものだと思われる低い声に交じって時折プリムラの声が聞こえる。相手の声はボソボソとしていて何を言っているのか聞き取れなかったが、プリムラのよく通る声が「そんな」「噓でしょう?」「どうしたらいいの?」と鋭く響き、明らかにプリムラにとって良くない話なのだと感じさせた。
話の邪魔をしない方がいいかもしれないと思いしばらく待ってみたが、一向に終わる気配がない。ただでさえかなり遅くなっているのでこれ以上は待てない。フワナは覚悟を決めると軽く二回ノックした。
「フワナです。飲み物をお持ちしました。」
聞えていた話し声がぴたりと止んだ。中から応えはなく、小声で二、三言交わした後、硬い靴底の鋭い足音が近づいてきた。フワナは先程の失態を繰り返さないようにドアから離れ廊下の端に寄った。
勢いよくドアが開き、中から王の側近であるレインズが出てきた。レインズは王妃の叔父でもある。なので王妃の部屋から出てきたところでなんらおかしなことではなかったが、まるで何か見てはいけないものを見てしまったように咎めるような目で睨まれた。フワナは慌てて目を伏せ、お辞儀をした。
通り過ぎると思ったレインズは何故かフワナの前で足を止めた。爽やかなミントの香りがフワナの鼻に届く。レインズがいつも身に着けている香りだ。落ち着くはずの香りだが、レインズが何を考えているのか分からない今、その香りに全身が包まれることが酷く落ち着かなかった。
レインズは勢いよくドアを閉めると廊下に足音を響かせて歩き去った。足音が充分遠ざかるのを待ってからフワナは顔を上げ、もう一度扉の前に立つと再度声をかけた。
「フワナです。飲み物を―」
「入って。」フワナの言葉を切るようにプリムラが言った。
フワナはトレイを片手で持つと、もう片方の手で扉を開けた。飲み物を乗せたトレイは片手で持つには重すぎて手がプルプルと震えた。そこで初めてレモネードが盛大にこぼれてトレイ全体に薄いレモネードの池ができていることに気が付いた。あぁ…拭いておけばよかったと思ったが今更どうすることもできず、部屋に入る。
いつものプリムラだったらトレイを置く前に目ざとく見つけて「あなたって本当にそそっかしいわね」と呆れた顔をするところだが、今日のプリムラは違った。白い大理石でできたテーブルの前に置かれた藤の椅子に力なく体を預け、フワナがテーブルの上にトレイを置いてハンカチでこぼれたレモネードを拭くさまを見ても黙っていた。
プリムラはいつまで経っても身動き一つせず、レモネードに浮かぶ氷を瞳の中で燃える炎で溶かしてしまうのではないかと思うほど見つめていた。