1章 アイスバーグ-01

 

 開け放しの窓から入ってきたひんやりとした風が耳を冷やし、アイスバーグは体を震わせた。日は暮れかかっているがまだ夕陽が空をオレンジ色に染めている。このくらいの時間は少し前ならまだ暑さすら感じたというのに、今日の風には冬の匂いが混ざっているように思う。

 雪国生まれの猫獣人を母に持つアイスバーグはこれくらいの寒さで体調を崩すようなことはなかったが、心細いような人恋しいような気持ちにさせるこんな寒さは好きではなかった。

 

 アイスバーグは読んでいた本を机に置き、窓を閉めるために立ち上がった。だが窓に向かう前に異変を感じて動きを止めた。本に集中している時には気が付かなかったが、部屋の外からいくつもの足音が聞こえる。そのくせ息をひそめているように声は聞こえず、そのことがアイスバーグの警戒心をざわつかせた。

 音を立てないように壁に掛けてある剣を取り、腰のベルトに差す。肩の後ろがぞくぞくし、毛が逆立つのを感じる。

 

 ここ最近、いつもと違う空気が城内に漂っていることは感じていた。城の者たちの無関心な視線の中に混じる、敵意ある視線が増えた。どうせまたプリムラが自分に関する嫌な噂を流したのだろうと思っていた。

 

 突然扉が開かれることを覚悟して身を固くしていたが、予想に反して落ち着いた調子でノックされ、その後に聞こえてきたのは親衛隊長ザントの声だった。

「アイスバーグ王子、ザントです。」

「ザントか、入れ。」

 最近の城の様子に神経が過敏になっていたらしい。緊張が解け、体から力が抜ける。そういえば窓を閉めようと思って立ったのだった。アイスバーグは扉に背を向けると窓の方に向かった。後ろで扉の開閉の音が聞こえ、聞き慣れたザントの足音が部屋に入ってきた。

 

 次の瞬間、何かが急速に近づいてくる気配を感じ、咄嗟に大きく前に飛んだ。飛んだ後で、しまったと後悔した。ヴァナが剣術指導者として城に来てから、訓練中や廊下ですれ違った時などに背後から鞘に入った剣で「隙あり!」と頭を叩いてくるものだから、それを避ける癖でつい避けてしまった。初めて後ろから後頭部を叩かれた時はなんでそんな卑怯な真似をするのだと驚いて抗議したが、そんなアイスバーグに「王族はいつ命を狙われる分かりませんから」とヴァナは言い、アイスバーグが上手く避けられるようになった今でもまるで挨拶でもするかのように毎回剣を振ってくるのだ。

 だが、今ここにいるのはザントで、ザントがそんなふざけたことをしてくるわけがなかった。ただ近づいただけで前に飛んで逃げた自分はさぞかし愚かに見えたことだろう。恥ずかしく思いながらザントを振り返ると、ザントは驚いた顔をしていた。それはそうだろうと思ったが、ザントの手に鞘から出した剥き身の剣が握られているのを見て、アイスバーグは硬直した。

 

 ザントは左目の下をピクピクと痙攣させ、無言で剣を握り直した。何かの間違いだと思いたかったが、何を間違えたらこんな状況になるというのだろうか?急激に早くなる心臓に息が乱れる。

 こちらの取り乱した様子を見て逆に落ち着いたのか、ザントの表情が緩んだ。

「剣を抜いたらいかがですか?」

 沈黙が途切れ。アイスバーグはようやく口を開くことができた。

「なんで?なんでこんなことするの?」

 思わず出たのは子どもの問いかけのような言葉だった。上ずった高い声が余計に幼さを感じさせた。

「あなたがシブレット王子を暗殺しようとしたからですよ。」

 

 思ってもみなかった言葉にアイスバーグは自分の耳を疑った。

「そんなこと…。僕がそんなことするわけないじゃないか…」

 そう言いながら、真っ先に浮かんだのはプリムラの顔だった。プリムラが仕組んだに違いない。周りにアイスバーグの悪評をある事ない事触れ回ってきたプリムラのやりそうなことだ。そのことに今更何も感じなかったが、それをザントが信じ、剣を突きつけているということがアイスバーグを傷付けた。

 

「否定されますか?」

 ザントはいつもと変わらない穏やかな口調で聞いた。

「僕はそんなことしない。ザントだって―」

 僕がそんなことしないって思うだろうと言いたかった。それを阻んだのは、同意を求めるように伸ばした手に振り下ろされた剣だった。

 

 

 何が起こったのか理解する間もなく、脳を直接剣で刺されたかのような激しい衝撃が襲った。左腕の先にあるはずの手が存在せず、ぼたぼたと血が溢れて石の床に溜まっていく。その血だまりの中に自分の手があるという事実を、脳が受け入れることを拒否している。

 ザントが握っている剣は今まさに沈もうとしている夕日を映して、赤く光っている。夕日の赤だというのは見間違いで自分の血の色なのかもしれないと脳の冷静な部分が言っているが、この状況でそんなことを考えること自体、もう正常に考えられる部分など残っていないのかもしれなかった。

 

 ザントは呆然としているアイスバーグの腰に吊るされた剣を引き抜くと、ゆっくりと自分の頬に滑らせた。薄灰色の毛にスッと赤い筋が入り、溢れ出した血が頬を伝った。ザントは剣を血だまりの中に放ると、再び自分の剣を構えた。その剣の向こうに見えるザントの目は、こんな時でも穏やかに見えた。

「なんで…」

 そこまで口にしたが、その先は続かなかった。なんでこんなことになったのか、なんでこんなことをするのか、なんでよりにもよってお前なのか、なんで…。「なんで」に続く言葉が多すぎて、どれも出てこなかった。

 言葉にならなかった質問に答えるようにザントが口を開いた。しかしにわかに部屋の外が騒がしくなり、ザントは何も言わずに口を閉じた。

 

 聞き慣れない声の怒号が聞こえ、荒々しく扉が開かれた。ザントはちらりとそちらに視線を送り、一瞬だけあからさまに眉を寄せた。兵の制止を振り切って入ってきたのは副長のヘロンだった。扉の外ではヘロンにいつも付き従っている黒い狼獣人が数人の兵と揉み合っている。

 

「隊長、何故こんなことを?!」

 いつもは冷静なヘロンが声を荒げてザントに詰め寄った。最初ヘロンの声だと気がつかなかったのは、今まで一度もこんな彼の姿を見たことがなかったからだ。それに対してザントは場違いとも思えるような冷静な口調で答えた。

「アイスバーグ王子はシブレット王子を亡き者にしようと企てたのです。話を聞くためにご同行願おうと思いましたが、剣を抜かれたので、やむなく。」

 その言葉を聞いてアイスバーグは全身から力が抜けていくのを感じた。ザントはプリムラに騙されてここに来たのではない。ザントもあちら側だったんだ…

「何を馬鹿なことを…!そんなことあるはずがないでしょう?隊長は本当に王子がシブレット様を手にかけようとしたと信じているのですか?」

「…お前はそう言うと思ったよ」

 ヘロンの問いかけにザントが呟いた。その呟きは小さく、アイスバーグの耳にだけ届いた。

 

 ザントは音が聞こえる程大きく息を吸い込むと、声を張り上げて命じた。

「懸念していた通り、ヘロンとクロウもこの企ての加担者であった!捕らえよ!抵抗する場合はやむを得ない、斬れ!」

 兵たちはしばらくの間たがいに顔を見合わせていたが、ためらいがちに鞘から剣を抜いた。

 今ここにいる者たちは皆アイスバーグ親衛隊に所属している者たちだ。言葉を交わしたことがある者は少ないが、どの顔も見覚えがある。皆が自分を好意的な目で見ていないことは薄々気付いていた。弟シブレットの親衛隊に配属されたかったという言葉を耳にしたこともある。だから心から信頼したことはなかった。ザント以外は―…。

 それでもこうして実際に剣を向けられると、自分が親衛隊を自分の味方だと心のどこかで思っていたのだと痛感した。裏切られたという思いが胸を刺す。

 

 そんな中、一番最初に大きく動いたのはヘロンだった。剣を引き抜きざま柄でザントの腹を殴り、よろけて後ろに数歩下がったザントとアイスバーグの間に割って入った。白い背中越しにこちらを憎々しげに睨むザントが見える。いつかこんな状況になることがあったら、最後まで自分を守ってくれるのはザントだと思っていた。今、全く違う背中がその男から自分を守っている。何も分かっていなかった自分の愚かさに、腹の底から何かが込み上げてくる。それが嗚咽なのか笑いなのか自分でももう分からなかった。

 廊下からは剣がぶつかり合う激しい音が響いてくる。ヘロンについてきたクロウと呼ばれていた狼獣人は多くの兵に囲まれて苦戦していた。がっしりとした逞しい身体で振るう剣は力強かったが、一人で相手にできる人数ではなかった。それでもまだ立っているのは、戦うことにお互いためらいがあるからだろう。

 

 「クロウ、来い!」

ヘロンが鋭い声で一言命じた。クロウは一瞬にして狼姿になると、床を一蹴りして兵の輪を飛び出し、ヘロンの足元に滑り込んだ。それはヘロンが短い魔法の詠唱を終えるのとほぼ同時だった。

 暗くなりかけていた部屋に突如 朝日のような白い光が溢れた。

 

 それがアイスバーグの、城での最後の記憶となった。

 

一章 -完-  二章へ続く