2章 アイスバーグ―02

 

 耳元で聞き苦しい荒い呼吸がする。背中はやたらと寒いのに、腹側は生ぬるく、左腕はそこに心臓があるのかと思うほど熱くドクドクと脈打っている。だんだんはっきりとしてくる頭で、自分が誰かに背負われて運ばれていることを理解した。

 

 切り落とされて床に転がる手。ザントのひきつった顔。押し寄せる兵。ヘロンの背中。こちらに飛んできた黒狼。全てが強烈な白い光に飲み込まれていくのを見たのが最後だった。あの後どうなって、今どういう状況なのか…。それを確認するのが怖くてアイスバーグは目を開けられずにいた。

 

 「クロウ、代わるか?」

 最初に聞こえた声がヘロンのものだったことにアイスバーグは少しだけ安堵した。

 「いえ、大丈夫です。」

 アイスバーグを背負っているのはクロウという名前の者らしい。おそらくあの黒狼だろう。ハキハキとした声で答えているが、体を密着させているアイスバーグには彼が声が震えないよう体に力を込めたのが伝わった。言葉を発したことで更に呼吸が荒くなる。負傷でもしているのか?アイスバーグは薄目を開けた。

 カラスのような緑がかった黒い毛が目に入る。毛の黒さと周りの暗さでよく見えないが、首筋から背中にかけて月明りを反射して不自然に光っているところを見ると、かなり出血しているようだった。まばらに生える低木を避けるのも億劫なようで枝が毛をかすり、足を引きずる様に動かすせいで時折枯れ草に足をとられながら進んでいく。

 

 彼らの以外にも誰かいるだろうかと耳をそばだてて探ってみたが、他の気配は感じられなかった。先程刃を向けてきた者たちはいない。それに安心するのと同時に、あの状況で自分についてきた者はたった二人だけなのかと思うと虚しくなった。

 

 幼い頃に母を亡くし、新しく母になった人は自分を愛してくれなかった。それどころか疎まれていた。元々アイスバーグに無関心だった父は弟が生まれてから見向きもしなくなった。それでも父親の気を引こうと頑張っていた頃もあったが、その度辛い思いをする羽目になったのでやめた。

 無関心や敵意に囲まれる中、ザントだけは自分に視線を向けてくれた。何か上手くできれば褒めて笑顔を見せてくれた。幼い頃は大きな手で頭を撫でてくれることもあった。ザントだけは何があっても自分の味方でいてくれると思っていた。真っ先に刃を向けてくる相手になるとも知らずに…。

 

 こうなった今、誰一人として信じられる者はいない。先程自分を庇ってくれたヘロンとて、何を考えているか分かったものではない。常に無表情で口数が少なく、口を開けば厳しい事しか言わないこの白狐獣人にアイスバーグは元々苦手意識を持っていた。クロウの方は獣人というよりは人懐っこい犬のような雰囲気で、「俺は副長ラブなんで!」と言ってはヘロンにくっついて歩いている、ヘロンの飼い犬のような印象だった。アイスバーグのことは副長が従っている者としか見ていないようで、敬意ある態度を見せることはなかった。そんな二人にこのまま黙って運ばれていて大丈夫なのだろうかと不安がよぎった。しばらく様子を探っていたい気もするが、手遅れになる前に相手の出方を見た方がいいかもしれない。

 

 アイスバーグは今気が付いたというようにわざとらしく身じろぎをした。それに気付いたクロウが振り返り、アイスバーグが目を開けていることを確認するとヘロンを呼び止めた。

 「副長!王子が目を覚ましました!」

 少し前を歩いていたヘロンが足を止め、クロウが追い付くとアイスバーグの顔を覗き込んだ。ヘロンは何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこないのか、何も発さないまま閉じた。今の状況を説明するのを躊躇っているようだった。その重い沈黙をクロウの無遠慮な声が破った。

「王子、悪いんすけど、獣姿になれます?追われてるんで出来るだけ早く進みたいんすけど、獣人姿だと重くって」

身分の低い家の出なのだろう、言葉遣いを知らない奴だ。アイスバーグは少しむっとしたが、クロウの背中から下りると、言われたとおり獣姿になった。その拍子に腕に巻かれていた包帯が緩んで落ち、手首から先がない腕が露わになった。三人の視線がそこに集まった。

 「…魔法で血は止めました。申し訳ありません、私には治すほどの力はなくて…」

 ヘロンがすまなそうに言った。

 アイスバーグは無言で腕から目を逸らした。自分が失ったもの全てを思い出させるその腕を見るのは辛く、耐えられなかった。

 

 「状況を報告してくれ」

 アイスバーグが命じると、ヘロンは小さく息を吐いた。

 「私も完全には把握できていないのですが…。王子はシブレット様の殺害を企てた罪で連行されるところだったようです。抵抗したのでやむなく隊長が剣を抜いたと…そう聞きました。」

 「そんなことはしていない…」

 アイスバーグが力なく反論すると、ヘロンは静かに頷いた。

 「分かっております。」

 「嵌められちゃったんだね」

 クロウが軽い調子で言った。カードゲームでズルをされたときくらいの軽さで、深刻さがまるで感じられない。その緊張感のなさに、アイスバーグは体から力が抜けそうになった。ヘロンは慣れているのか気にとめた様子もなく続けた。

 「王子殺害を目的としているようでしたので城を離れました。しばらくの間ミスティフォレストに身を隠して状況の把握に努めるつもりです。あそこは身を隠すのに最適な場所ですから。」

 「そうか…。分かった。任せる。」

 アイスバーグは目を閉じた。もう全てどうでもいいという投げやりな気持ちしか湧いてこなかった。

 

 

 続く