プロローグ プリムラ王妃―01

 

 黒い岩山は頂上にだけ雪が残り、細い月の薄明りの中では夜空に白い城が浮かんでいるように見えた。麓の方ではひんやりとしていた足元の岩は頂上に近づいた今、痛いほどの冷たさになっていた。

 ここまで大人しく咥えられてきたシブレットが頂上から吹き下ろしてきた冷たい風に吹かれて不満そうな声で鳴いた。生まれた時はなかなか声をあげず心配したが、月の満ち欠けが一周する頃には声も体も生まれた頃と比べて大分大きくなった。それでも山に連れてくるのはまだ早かったかもしれない。少しの後悔と共に、ゴールデンメドウの王であり、夫であるイシュケの言葉を思い出す。

「あれは不吉な生き物だ。関わらない方がいい。」

 フッと鼻から笑いが漏れた。馬鹿らしい。未来を予知する生き物が不吉なものの筈がない。何が起こるか前以て分かっていればそれに備え対処ができる。この子の未来に起こることを知り、なんとしても守る。そのためならどんな化け物とも対峙してみせる。

  

 

 シブレットが再び鳴いた。声が震えている。プリムラは足を速めた。ごつごつとした黒い石は彼女のクランベリーのような瑞々しく艶やかな肉球を傷つけた。少し前だったら自分の価値を下げる行為は絶対に避けただろうが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

 

 イシュケは自分とシブレットを愛し、それはそれは大切にしてくれている。しかしその一方で前妻との息子であるアイスバーグには興味を示さない。父親の関心を引こうと指導者に褒められた話などを懸命にするアイスバーグに向ける感情のない視線を思い出す。アイスバーグに同情する気持ちが湧くのと同時に、明日は我が身だという不安感で押しつぶされそうになる。いつまでも寵愛が続く保証はどこにもない。自分一人の時はそれでもいいと思っていたが、シブレットにあんな悲しい顔はさせたくない。

 

 山頂近くの岩棚にある洞窟に予言する者…フリズモスは住んでいた。洞窟の入り口はここまでと同じ黒く荒い岩肌だったが、少し進むと滑らかで艶のある白い石に変わった。凍った雪のような煌めきを放つ冷たい床を慎重に進む。進むごとに足の痛みが引いていくのは、滑らかな石のせいか、それとも床に少しの温もりを感じるからなのか…。 

 

 曲がった穴の先から青や赤の光が漏れ、揺らいでいる。その光に誘導されるようにプリムラは更に奥へと進んだ。

 

 

 角を曲がると奥に大きな青い生き物が見えた。紫がかった青い体はガラスのような透明感があり、体内を絶え間なく青い光と赤い光が行き来しているのが透けて見える。先程から見えていた光の正体はこれだったらしい。捻じれた赤い角のところどころから宝石の結晶が生え、顔の両脇からはかつては角だったものが結晶化したと思われる長く尖った宝石が突き出している。こちらが近づいても微動だにしないそれは、大きな宝石の塊に見えた。

 

 プリムラは獣人に姿を変えながらシブレットから口を離して腕に抱いた。シブレットはきょとんとした顔で母の顔を見上げてから、腕の中できゅっと丸くなった。シブレットが落ち着いたのを確認してからプリムラはフリズモスの爪が届かない距離まで歩き、足を止めた。この獣に危害を加えられたという話は今まで一度も聞いたことがないが、それでも小屋ほどの巨体の前に立つと、足が震えた。

 

 迷いを振り払うように深呼吸し、腰ベルトに下げてきた袋を外して中身を床に出した。ルビー・サファイヤ・エメラルドなどの色とりどりの宝石が白い床の上に散らばった。色も形も様々で、中にはプリムラの掌球ほどの大きさのものも含まれている。

 

 鼻先に宝石が転がってきてフリズモスはようやく頭をあげた。目は閉じたまま開けず、顔だけをプリムラに向ける。

 固い石をも砕く大きな嘴がゆっくりと近づいてくる。プリムラは無意識のうちに一歩後ろに下がった。シブレットを抱く腕に力がこもる。

 

「フリズモス…未来を見る者よ。貴方は宝石と引き換えに未来を教えてくれると聞く。わが子シブレットの未来を見てほしい」

 プリムラは敬意をこめて深くお辞儀をした。フリズモスはそんなものには興味がないようで、床に散らばった宝石を啄み始めた。飴でも食べているのかと思うほど容易く軽々と石を噛み砕き飲みこんでいく。その姿はただの大きい鳥のようで、プリムラは不安になった。フリズモスは噛み砕いたときに床に散らばった宝石の粒を長い舌で舐めとった。海藻のようにうねった髪が床を擦っている。その卑しい姿に、プリムラは鳥肌が立つのを抑えられなかった。

 

 床に塵一つなくなるとフリズモスは顔をあげた。ぐっと首を伸ばし、プリムラの腕の中にいるシブレットを覗き込む。プリムラの緊張が伝わったのかシブレットが目を開ける。目の前に迫ったフリズモスに驚き、ぎゅっとしがみついてくる。小さな爪が手に深く刺さったが、その痛みを感じないほどプリムラの心臓は跳ねあがっていた。

 

 

 フリズモスがゆっくりと目を開けた。その目は完全に石化し、大きな水晶の球が嵌められているようだった。紫色だった体がみるみるうちに白みがかった透明になっていく。それにともない体内の光も黄色やピンクといった優しい色に変わっていった。それはとても美しく、先程までの禍々しい姿とはまるで違う神々しい姿だった。

 

「その子とよく似た…氷のような目をした少年に刃を突きつけられる。その時全てが終わるだろう」

男とも女とも若いのか年寄りなのかも分からない、本当に声なのかも確かではない不吉な予言が洞窟の中に響いた。

 

「終わるってどういうこと?シブレットが…死ぬということ?」

最後の方は声が震えてほとんど言葉になっていなかった。

 

 フリズモスは質問に答えることなく、プリムラが来た時と同じように目を閉じ丸くなった。そしてそれきりプリムラがどんなに呼びかけても石になったかのように動かなくなった。

 シブレットに似た氷のような瞳をした少年と言ったら一人しか考えられなかった。第一王子アイスバーグ。あの子供がシブレットに危害を加えることは間違いないらしい。さっきまであったアイスバーグへの同情心は全て消え去り、脅威の種にしか感じられなくなった。不吉な予言に震えてカチカチと音を立てる奥歯をぐっと噛みしめて、無理矢理震えを抑え込んだ。

 

「安心して、シブレット。そんな未来、私が変えてみせるわ。」

プリムラは爪を食いこませたまま眠ってしまった我が子に優しく微笑んだ。