1章 ザント-01
秋の空気を感じるようになってから大分経つが、それでも太陽が真上に近づく頃になるとまだ夏が残っているのだと感じさせられる。強くなってきた日差しが訓練場の石タイルに反射して眩しい。ゴールデンメドウ第一王子の親衛隊長であるザントは眉間にしわを寄せながら目を細めた。
褐色と象牙色の雲母を含むざらざらとした石のタイルは三角やダイヤ型に整えられ、それを組み合わせて綺麗な模様が作られている。この模様はただの飾りではなく、このゴールデンメドウに昔から伝わる戦闘時のステップを指南する時のために作られたものらしい。その美しくも複雑な戦闘法を使う者は今では数えるばかりになっている。
茶と黄金色の毛を持つ獣人が無駄のない動きで褐色のタイルだけを踏んで、もうほとんど知る者がいなくなったステップを見せた。遠い血に王族の血が混ざっているという噂のある彼は、それが本当のことだと思わせる気品のある動きをしている。全身を隆々とした筋肉に覆われているにも関わらず、一枚の葉よりも軽そうに見えた。
その後に続いて猫獣人の少年が同じようにステップを踏む。正確ではないものの、ネコ科らしいしなやかな動きでなかなか様になっている。指導者である獣人はその動きを見て何かアドバイスし、少年はその場でもう一度動いて見せた。少しのアドバイスで格段に良い動きをするようになった少年に、指導者は厳しそうなルビー色の目を少しだけ細め、少年に言葉をかけた。
「ありがとうございます!エスクード」
指導者に褒められてシブレットが人懐っこい笑顔を浮かべた。高い子供の声はよく響き、訓練場の隅に控えているザントの耳にも届いた。
ゴールデンメドウ古代武術の使い手であるエスクードは、元々は第一王子アイスバーグの指導者になるはずの男だった。しかしシブレットが生まれた後、イシュケ王の命でシブレットの親衛隊長になった。それがシブレットの剣術指導者にするための名目だということに気付かない者はいなかったが、王の決定に意見する者はいなかった。
足さばきについて質問するシブレットの声を、甲高い気合い声が遮った。ザントはシブレットたちから視線を外すと掛け声の主を見た。白と茶のたれ耳の犬獣人が両手に木刀を構え、尚も声をあげている。アイスバーグの指導者、ヴァナだ。ヴァナはむくむくとした胸の前でクロスさせるように二本の剣を構えた。その正面でアイスバーグが同じように剣を構えている。小柄な者が多い猫獣人の中でも小柄の部類に入るアイスバーグにヴァナと同じ長剣二本は不釣り合いに見える。
「アイアイアイーーーーッ!!!」
再び掛け声が訓練場に響き、両腕を鳥の翼のように広げたヴァナがアイスバーグに斬りかかった。アイスバーグは数歩後ろに飛んでその攻撃を避けた。何歩目かで踵をひっかけてバランスを崩したアイスバーグをヴァナの剣が襲う。アイスバーグはどうにか体制を整えながらクロスさせた剣でそれを防いだが、剣の重みとヴァナの攻撃で腕が下がり、ヴァナのもう片方の木刀で頭を叩かれた。
「もっと上で防げ。お前はもっと腕の筋力をつけた方がいいな」
「はい!」
指摘されてアイスバーグは素直に返事をした。
その前にまず足さばきを教えるべきだろう…とザントはため息をつきたくなった。それをどうにか抑えたのは隣に副隊長のヘロンがいるからだった。ヘロンが何か言いたげにこちらに顔を傾けているのが視界の端に見える。
エスクードがシブレットの親衛隊長に、ヴァナがアイスバーグの指導者になると決まった時、一番難色を示したのはヘロンだった。せめてザントが指導するべきだと主張していた。
ザントとてできればそうしたかった。実際に王に直談判もした。しかしヴァナを王に推薦したのは王が一番信頼している臣下であり王妃プリムラの血縁者でもあるレインズだった。王はヴァナを一度も見ることもなく、どんな人物なのか聞くことすらせず「ああ、そうしてくれ」と明日着る服を選ぶくらい簡単に決めてしまった。
どこかの聞いたこともない道場の師範をしていたというヴァナは、やる気に満ち溢れ、懸命にアイスバーグの指導をしていたが、戦場で戦った経験もなければ腕もいまいち、指導も目先のことばかりでなっておらず、レインズがなぜこの人物を推薦したのか全く理解できなかった。
ヴァナとアイスバーグが稽古という名のチャンバラごっこをしている間、エスクードから適切な指導を受けているシブレットはどんどん腕を上げていた。アイスバーグとシブレットは六歳差の兄弟だが、この調子だと兄が弟に負ける日も近いだろう。
隣にいたヘロンがさっと姿勢を正した。その目は訓練場の入り口に向いている。そこには誰もいなかったが、ザントも同じように姿勢を正した。それと同時に周囲に光の粒を放ちながらイシュケ王が訓練場に入ってきた。どうやって察しているのか分からないが、ヘロンは少し後に起こることを予見しているように動くことがある。
イシュケ王は訓練場の入り口に立ってしばらく訓練をするシブレットとエスクードを見ていたが、エクスードが稽古を中断したのを見計らって二人の元に向かった。気付いたシブレットが走り寄るとイシュケ王は息子の頭を撫で、父親らしい穏やかな笑みを浮かべた。シブレットの嬉しそうな声が響く。威厳ある父と快活な王子。この国は安泰だと思わさせられる光景だ。
「シブレット王子が第一王子だったらよかったのに…」城で囁かれている言葉が頭をよぎる。
その言葉に反発する気持ちがあったのは、もうだいぶ前のことだ。今はもう自分も心のどこかでそう思っていた。
「ザント、今の動きはどうだった?」
いつの間にかアイスバーグが横に来てザントを見上げていた。「氷のようだ」と表現されるアイスバーグの瞳は自分のことを見つめる時だけは冷たさを感じさせない。イシュケがシブレットを構う度、アイスバーグはザントの元に来る。
アイスバーグが自分に何を求めているのかは分かっている。父親から貰いたかった愛情、かけてほしい言葉。それを代わりにくれる存在として自分を見ている。それはとても光栄なことだったが、同時に重荷でもあった。アイスバーグがどんなに自分に父親を求めても、自分はアイスバーグを自分の子供のように感じることができないからだ。それでも無理矢理口角を上げる。
「よくできていたと思います。」
なるべく温かく聞こえるように声を作りながらザントは答えた。
「そうか」と言うアイスバーグの表情はいつもと変わらなかったが、その声には喜びが滲んでいる。
「足さばきをもっと訓練した方がいいですね」
ヘロンが場の空気を切るようにきっぱりと言い放った。どんな場面でもいちいち正論を言うその姿勢には、いっそ感心する。
指摘されたヴァナは一瞬ポカンとした表情を浮かべたが
「そうだな!俺もそう思っていたところだ!」
まるで自分も同じように考えていたと言わんばかりに言った。
「ザントもそう思うか?」
アイスバーグが訊ねた。
「そうですね。」
軽く同意すると、アイスバーグはたちまちしょんぼりとした顔になった。
自分の言葉に一喜一憂するアイスバーグに冷ややかな気持ちになってしまう自分にザントは落胆した。